争奪戦になった。広島の元4番打者・西田真二氏(野球評論家、香川オリーブガイナーズアドバイザー)は、和歌山市立河西中学軟式野球部で実績を残し、知る人ぞ知る存在になった。当初は和歌山県内の公立高に進学するつもりで受験勉強に励んでいたが、複数の強豪高が獲得に名乗りを上げて“流れ”が変わった。関東の名将からも直々に「来てほしい」とラブコールを送られた中、選んだのはPL学園。スカウトや関係者が30回以上も家に来たという。
西田氏は和歌山市立貴志小6年時に貴志少年野球団のエースとして和歌山市大会を制覇したが、河西中では必ずしも順調な“野球生活”ではなかった。「(1973年の)中学1年の時はちょっと反抗期になってね。野球部の練習に行ったふりして友達と遊んだりしていた。(小学校の時)野球に縛られていたので、遊びたかったんだろうなと思う」と苦笑しながら明かした。「練習に出ても1年の時は球拾いだし、上下関係も多少あったんでね」。
その後、野球部に“復帰”したが「あの頃のことはあまり覚えていないんですよねぇ」という。それでも小学校時代から鍛えられた体は、中学でさらにパワーアップ。「遠投は100メートル。肩は自信がありました」。中学3年時はエース兼4番打者として活躍した。「3年の時は面白いチームメートがたくさんいた。みんな個性的でね。僕は監督兼任みたいな形でノックしたり、バッティングも好き勝手させてもらった」と、1年時とは一転して充実の日々だったそうだ。
「中3の時に(和歌山)市の大会で優勝しました。でも田辺市で行われた県大会では(有田市立)保田中学に負けた。1つ下の2年生に、石井(毅投手、元西武)と嶋田(宗彦捕手、現阪神スコアラー)がいたところにね。点数は覚えていないけど、その時に、何か悔し涙を流したような……」。そこで終わった中学野球だったが、西田氏は注目の逸材として知られた。「(同じ和歌山出身で1歳年下の)正田(耕三内野手、元広島)もよく言うんですよ。『和歌山で西田って名前はけっこう轟いていた』ってね」。
実際、多くの強豪校から声がかかった。原辰徳氏(元巨人)の父で当時、東海大相模の監督だった原貢氏からも誘われた。「僕の家まで来ていただいて『西田君、ウチに来てくれ』と言われました。東海大相模が(1970年夏の)甲子園で優勝した時のキャプテンの井尻(陽久)さんが河西中の先輩でルートがあったんです」。和歌山県内の高校に進学するつもりでいた西田氏の気持ちは大きく揺れ動いたという。
「もともとは(和歌山の)向陽高に行きたいと思っていました。昔の海草中。(1939年全国中等学校大会優勝、準決勝、決勝で2試合連続ノーヒット・ノーランの)嶋(清一)投手がいたところです。簡単に入れる学校ではないので受験勉強もしていたんですけどね」。悩んだ末に決めたのは、1970年夏の甲子園決勝で東海大相模に敗れたPL学園だった。「PLの(1期生で元監督、伝説のスカウトと言われた)井元(俊秀)先生は家に30回以上来られたんです。まぁ大阪だったら近いし、親父もPLでいいんじゃないかという話になったんです」と、PLサイドの猛烈な熱意が決め手になった。
「正直、僕はPLってあまり印象がなかったんですよ。後々、新美(敏)さん(元日拓・日本ハム、広島)や新井(宏昌)さん(元南海、近鉄)とかが(OBに)いて、(1970年夏に)甲子園準優勝。ああ、そうなんだぁって感じになったくらい」と西田氏は笑う。「中学3年の3学期にPL学園中に転校しました。本当は河西中で卒業したかったんですけど、早く寮とかに慣れた方がいいんじゃないかってことでね。確か金石(昭人投手、元広島、日本ハム、巨人)も同じように転校してきたと思う」。
親元から離れての新生活。「親のありがたみがわかりました。もうその時から全部、自分でやらなければいけなかったですからね。朝は5時半とか6時には起きて、掃除したり……」。PL学園中学からPL学園高校へ。同級生は精鋭揃いだった。「甲子園で優勝するために(全国から)集められたと聞きました。まぁ、それでも関西が多かったですけどね」。西田氏が大きく飛躍する熱い高校時代がスタートした。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)