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【アフリカネーションズカップ決勝直前】バオバブの木のように揺るがない…セネガル代表の挑戦と成長の軌跡

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アフリカネーションズカップもいよいよ決勝だ。 なかなかスポットライトを浴びることはないが、アフリカ諸国にもサッカーにまつわる様々な物語がある。 アフリカネーションズカップを契機に、その物語の一端に触れてみるのも悪くない。 あなたがまだ知らない、サッカーの魅力と可能性を感じられるはずだから。 

 書籍『不屈の魂 アフリカとサッカー』が綴る14の物語のうち、 アフリカネーションズカップ決勝でモロッコと対戦するセネガルの物語を紹介する。

文=アルベルト・エジョゴ=ウォノ(Alberto Edjogo-Owono)  翻訳= 江間 慎一郎、山路 琢也  (翻訳)

◼︎「暗闇の緑海」の記憶とバオバブの魂

アフリカ西部を流れる河川が、ある国の名前の由来となった。セネガル川。全長はおよそ2千キロで大西洋に注ぐ。そして、「ひとつの国民、ひとつの目標、ひとつの信条」という標語に濃縮される国家を洗礼している。砂の大地に足を踏み入れた人に「セネガルで特徴的なものは?」と質問すると、返事はいつも同じ。「人々」である。セネガルの国民は先天的に親切で、もてなし好きだ。よそ者を厚遇することを「テランガ」と言う。国歌『赤いライオン』にも使われている概念で、サッカー代表の愛称も〝テランガのライオン〟と呼ばれる。セネガルの人口はおよそ1500万人。アフリカ大陸の最西部に位置し、人口の大半は農村地帯に住み、多様な種族の習慣が幅広く混交する。 20もの民族が全国に分散し、言語はウォロフ語が一番多く使われているが、公用語はフランス語。宗教は多数がイスラム教で、村落では優勢なアニミズムと共存している。

他のアフリカ諸国とは異なり、セネガルの現代史は大きな悲劇には見舞われていない。だが古い歴史の中では、15世紀中頃に最初の植民者がやってくると、人類史上最大の残忍な行為が行われた。ポルトガル人が初めて足を踏み入れたのは1444年のこと。目の前には色鮮やかで香り高い大地が広がっていた。植民者は「この地は何と呼ばれているのか」と土着民に尋ねたそうだ。言い伝えによれば、ある土着民が焼けるように暑い日射しを避けるため、タマリンドの木陰に逃げて「Dajar」と答えた。これはタマリンドを意味するウォロフ語で、土着民はポルトガル人に木の名前を尋ねられたと思ったのだ。これがセネガルの首都ダカールの語源だと言われている。現代では、ダカールは西アフリカ最大の商港のひとつだが、かつてポルトガル人は大規模な奴隷貿易を行っていた。ダカール港から船でわずか数分のところに、面積がわずか17ヘクタールの島がある。その島に明白な目的でもって建物の建設を始めた。大勢の捕虜を収容するための施設である。捕虜はヨーロッパ諸国によって植民地化されたアメリカ大陸に送られ、奴隷として強制的労働を強いられた。残された記録によると、2千万人もの奴隷が西アフリカ各地からこのゴレ島に集められ、アメリカ大陸へと売買されていった。祖国から遠く離れた地に連行される土着民たちは、アフリカ大陸からアメリカ大陸へとつながる大西洋を「暗闇の緑海」と呼んでいた。

18世紀には奴隷貿易が最盛期を迎えた。土着民を拉致して、労働力として売りさばいて金にする。ゴレ島には、丸儲けの商売で大金を稼いだ奴隷商人たちが、コロニアル様式の威容ある邸宅を次々に建て始めた。邸宅には、不可避の運命を背負ったアフリカ人を収容する地下室が備えられていた。ダカールを望む美しい歩道や展望台、そして檻に入れられた黒人奴隷たち。ヨーロッパの植民者たちを満足させ、先住民たちを辱める光景だ。奴隷たちは性、体重、年齢によって分けられた。ナイジェリアが出自のヨルバ族の人々などは、体格がよく、頑丈であるということを理由に高値で取引されている。19世紀末になってようやく奴隷制度は廃止され、4世紀にわたって西アフリカがヨーロッパから受け続けた恥辱と屈辱の時代は終わりを迎えた。

だがしかし、黎明期の主権国家セネガルが歩む道は困難を極めた。1959年4月、セネガルとフランス領スーダン(現在のマリ共和国)は合併してマリ連邦を結成。両領土ともフランスの植民地政策であるアフリカ・フランコフォニーの一部を形成している。しかし国情の不一致によりマリとセネガルは袂を分かち、1960年には双方とも完全に独立した国となった。単独国家となったセネガルの初代大統領に就任したレオポール・セダール・サンゴールは、フランスへの留学経験によって教養を身につけていた。特にパリのリセ・ルイ=ル=グラン[訳注:公立の後期中等教育機関。日本での高等学校に相当する]で学んだことで文学に精通していた。留学中のパリでは、友人のエメ・セゼール(マルティニーク出身)やレオン・ゴントラン・ダマス(フランス領ギアナ出身)とともに、雑誌『黒人学生』を創刊し、その中で「ネグリチュード(黒人性)」という概念を創造してパリ社会に定着させた。この言葉はアフリカやカリブ出身のパリ市民について、集団的アイデンティティを定めようとしたもので、エリート層による人種的偏見によって生じている障壁と対峙するものだった。セダール・サンゴールは、詩人、作家、社会主義を標榜するセネガル民主連合の創設者、失敗に終わったマリ連邦の推進者、そしてセネガルの民主的な初代大統領といった様々な顔を持つが、セネガル国民を国の象徴のひとつであるバオバブに例えるのが好きだった。バオバブは長寿の木で、過酷な環境にあっても動じない。まさにセネガル国民の我慢強さの象徴だ。「我々を殴打し、虐待し、全滅させようとすらするかもしれない。しかし我々はバオバブのように抵抗するだろう。セネガル国民は、恨みを抱くことなく過去を見て、希望を抱いて未来を見ながら、地に足をつけて生きていくのだ」と、サンゴールは作品のひとつに書き残した。

◼︎サッカーが2番人気の国

セネガル代表は、アフリカ大陸の強国になったことはない。〝テランガのライオン〟は近隣国が成功を収めるのを眺めていたが、自分たちには縁のない話だった。初めてアフリカネーションズカップ(CAN)に参加したのは1965年だ。開催国はチュニジアで、参加国はわずか6か国だった。セネガルは準決勝でコートジボワールと対戦し敗退した。次に参加した1968年の大会ではグループステージを通過することができず、それ以降は永遠に砂漠を横断しているかのような終わりなき低迷時代に突入した。1970年から1984年まで、アフリカ大陸最大の大会において8回連続で予選落ちあるいは不参加で本大会に出場できなかったのだ。この国でサッカーが長きにわたり日の目を見なかったのは偶然ではない。セネガルで一番人気のスポーツはセネガル相撲だ。1950年代からこのスタイルの格闘が一大興行となってきた。伝統的衣装を身にまとい、剣闘士のように筋骨隆々とした主役たちが1対1で闘う姿は国民を熱狂させる。円形の土俵内で格闘し、相手を土俵から押し出したり、仰向けに倒したりしたら勝ちだ。この格闘技では相手を拳で殴ることも許されており、闘いがより劇的なものとなる。

サッカーはこの伝統競技に比べて見劣りするため、いつも2番人気だった。ガーナやナイジェリア、カメルーンなどの代表チームが優勝を争っているというのに、セネガルは沈黙したままだった。しかし、2000年のガーナとナイジェリア共催のCANでは、火花が希望の導火線に点火した。グループリーグを通過後、準々決勝でナイジェリアと対戦。〝スーパーイーグルス〟はオコチャ、カヌ、ババヤロなどのスター選手を擁していた。それでも先制したのはセネガルだ。魔術師ハリル・ファディガが華麗なボレーシュートをお見舞いしたのだ。セネガルは久々の準決勝進出に手が届きそうだった。ジュリアス・アガホワが現れるまでは。このナイジェリアのストライカーはベンチから登場すると、2ゴールを決めて試合をひっくり返した。セネガルはまたもや早すぎる敗退を喫したが、チームには著しい進歩が感じられ始めていた。世界的な強豪をそのホームで窮地に陥れたのだ。期待に胸が膨らんだ。

◼︎日韓ワールドカップ

senegal fan次のビッグイベントは、ほとんど何も考える暇もないうちにやってきた。2002年に開催される日本・韓国共催のワールドカップへの出場権をかけた最終予選だ。セネガル人にとってワールドカップは手が届かない高嶺の花だったが、チャンスの到来を初めて感じる組み合わせだった。1枚の切符をめぐってナミビア、アルジェリア、モロッコ、そしてエジプトと戦う。残り2試合となったセネガルはモロッコと対戦した。首位争いをしている両チームにとって落とすことのできない大切な試合だ。セネガルは、前述の初代大統領に因んで命名された「スタッド・レオポール・セダール・サンゴール」でホームゲームを行った。セネガルの選手たちからすれば圧力鍋の中に放り込まれているようだったに違いない。およそ6万人のサポーターが、アジアの国でセネガルの国歌が鳴り響く夢を抱きながら集まっていたのだから。試合は残り時間20分までスコアレスの膠着状態だったが、セネガルはフェルディナンド・コリーがミサイルのように右サイドを走り抜け、ゴールライン際からクロスをあげると、そのボールに反応したエル=ハッジ・ディウフがシュートを枠内に叩き込んで1-0の勝利を飾った。セネガルはモロッコを破って勢いにのると、最終戦の相手はナミビアだったが大差で勝負を決めた。これで最終結果はモロッコと勝ち点では並んだが、得失点差で上回りグループ首位で予選通過が決定した。〝テランガのライオン〟は、ついに世界最大のサッカーの祭典にデビューすることとなった。Getty Images

日韓ワールドカップへの出場権を獲得したセネガルは口元に笑みをたたえたまま、2002年の初めに隣国マリで開催されたCANに出場した。わずかな期間であったとはいえ、共同体となったことがある国だ。元サッカー選手のフランス人ブルーノ・メツ監督に率いられたセネガル代表は国民に対して胸を張れる試合をしなければいけないという責任感を感じながら同大会に臨んでいた。グループステージは華麗にというよりも効率的な試合運びで通過し準々決勝に進んだ。このベスト16の試合でセネガルはその真価を発揮し始めた。コンゴ共和国を相手にサリフ・ディアオとエル=ハッジ・ディウフがゴールを決めて2-0とし、文句なしの勝利を収めた。準決勝の対戦相手は黒い猛禽のナイジェリアだ。〝スーパーイーグルス〟には前大会で敗北を喫している。そして再び最強のライバルとして立ちはだかろうとしている。試合はパワーに優れたミッドフィルダー、パパ・ブバ・ディオプのシュートでセネガルが先制したが、バマコ(マリの首都)のモディボ・ケイタ・スタジアムの電光掲示板が90分を示そうとした瞬間にナイジェリアのアガホアが2年前と同様にセネガル人のお祭り気分を台無しにした。しかし今回の延長戦は、〝テランガのライオン〟に勝利の女神が微笑んだ。サリフ・ディアオが再びスーパーヒーローとなって同点の均衡を破る救いのゴールを決めた。セネガルは1年半足らずのうちに2つの壁を破ったことになる。ワールドカップ出場とCAN決勝戦進出だ。

2002年のCANの決勝で、セネガルは前大会覇者のカメルーンと対戦しなければならなかった。大舞台が未経験なチームにとっては、チャンスの少ない重苦しい試合となったが、前後半と延長を含む120分の試合時間を耐えてスコアレスで終えると、勝敗の決着は11メートルの勝負でつけることになった。PK戦はセネガルにとって願ってもない形で始まった。カメルーンのピエール・ウォメが失敗したのだ。すべては、順調に進んでいった。セネガルの3人目のキッカーがシュートをブロックされるまでは……。セネガルの選手の肩にのしかかる責任の重圧はあまりに大きく、最後は3人のキッカーが全員失敗したほどだった。勝負を決定づけたのは、最後に蹴ったアリウ・シセの失敗だ。試合後、シセは目に涙をたたえながらも、見事な戦いぶりを示したことで恥じることなく堂々としていた。メツ監督率いる選手たちは、タイトル獲得の目前まで迫ったのだった。

その頃、セネガルは政治変動の時代にあった。19年間の長期政権を敷いた第2代大統領のアブドゥ・ディウフが選挙の決選投票でアブドゥライ・ワッドに敗れたのだ。ワッドは政権奪取の企てに何度か失敗したが、ついに選挙に勝利した。そして最初の政策として、大統領の任期を7年から5年に短縮した。セネガル北西部に位置するケベメールに住む仕立屋の息子に生まれたワッドは、フランスで法学と経済学を履修した。2000年4月に権力の座を奪うことができたのは青年層を味方につけたからだ。30歳未満の青年の3分の2が苦しんでいる失業問題に終止符を打つという公約を青年たちは喜んで受け入れたのだ。ところが、この先ワッドは公約の多くを反故にすることになる。

サッカーに話を戻すと、2002年の夏はセネガル国民にとって忘れられないものとなった。愛する代表チームが初めてワールドカップに出場したのだ。天からの贈り物であるかのように、グループリーグの初戦はフランス対セネガルとなった。前大会の王者と初出場チームの戦いであり、経済大国と開発途上国の顔合わせであり、長期間にわたり相手国の領土を侵略した国と手を縛られ侵略されてきた国の激突となるのだ。その上、開幕戦ということもあり、世界じゅうの目が試合会場のソウルワールドカップ競技場に注がれた。現地6万2千人の観衆を前に、セネガルのストライカー、エル=ハッジ・ディウフは歴史的なパフォーマンスを演じて見せた。ディウフの緩急あるプレーにフランスの2人のセンターバック、マルセル・デサイーとフランク・ルブフは翻弄されていた。セネガルは、カリロウ・ファディガが左からクロスを入れ、パプ・マリック・ディオプがオーバーラップから頻繁にフランスのペナルティエリアに攻め入り、ワントップのディウフがフランスのディフェンスの間を自由に動き回った。フランスのディフェンス陣は自分たちが目にしている現実を疑った。だが、フランス代表のアタッカーはしたたかだ。セネガルに短剣を突き刺すような反撃に出た。ティエリ・アンリは、プティからの配球をアタッキングサードで受けると優雅なフェイントでセネガルのディフェンダーをあしらい、ペナルティアーク付近まで走り込んできたトレゼゲにラストパスを送った。当時ユヴェントスFCに所属していたトレゼゲは、ワンタッチでマークを外すと右足を振り抜いた。ゴールの隅を狙ったボールはゴールポストに弾き返されたが、セネガルの選手たちは改めて思い知らされることになった。「これはワールドカップなのだ」と。けれども、セネガル代表には臆することは何ひとつなかった。アフリカのチームはピッチの上で伸び伸びとプレーを続けた。あきらめることなく何度も突撃すると、左サイドを抜け出したディウフからのクロスにパパ・ブバ・ディオプが飛び込んだ。ゴールが決まり、セネガルが1-0とした。

先制されたフランスは、ジョルカエフ、ヴィルトール、アンリ、トレゼゲらが攻めまくったが、ついにセネガルのゴールを割ることはなく、韓国ソウルでセネガルがジャイアントキリング(番狂わせ)を成し遂げた。ダカールでは国民が狂喜して、お祭り騒ぎが何日も続いた。サッカーの伝統のない国が、この歴史的勝利によりすべてのサッカーファンの心の中にその名を刻んだのだ。

さて、セネガルの道を塞ぐ2つ目の石はデンマークだ。試合の滑り出しはうまくいかず、トマソンにPKを決められた。それでも後半はセネガルが本領を発揮した。ハーフタイムを終えるとセネガルは名人技ともいえるプレーで同点に追いついた。ディアオは、ディウフからのスピーディーなパスを受けると左サイドにいたファディガにボールを預ける。セネガルは3秒足らずで目が回るようなカウンターアタックを組み立てた。さながらセレンゲティ国立公園[訳注:タンザニアにある世界遺産。公園内には300万頭もの野生動物が生息する]の猛獣たちが突進しているかのようだ。背番号10のファディガは司令塔として申し分のない資質の持ち主だ。ファディガはタイミングよくディアオの走り込むスペースへと優しくボールを戻した。80メートルを走り抜けてきたディアオはデンマークのペナルティエリア内に侵入すると、ゴールを守るセーレンセンの意表を突くかのように右足のアウトサイドでゴールを決めた。1-1の引き分け。これでグループリーグの突破に向けた仕事はほぼ終わった。

最後の仕上げは第3戦のウルグアイとの試合だ。その前半は、セネガルの攻撃がウルグアイを圧倒した。セネガルの先制点は、ディオフがウルグアイのペナルティエリア内でファウルを受け、獲得したPKをファディガが決めた。2点目は、今大会好調を維持しているパパ・ブバ・ディオプによるものだ。セネガルはハーフタイムまでに3-0と大きなアドバンテージを得たが、後半になってウルグアイに追いつかれてしまう。結局、引き分けてしまったが、セネガルにとっては、それほど気にはならないことだった。グループリーグの通過が決定したからだ。

決勝トーナメントのラウンド16は、北欧スウェーデンとの対戦となった。試合開始直後のセネガルは精彩を欠き、防戦一方の苦しい展開だった。先制点はスウェーデン。コーナーキックが起点となった。ニアサイドに蹴られたボールは、処理しようと飛び出したゴールキーパーのトニー・シルヴァよりも先にヘンリク・ラーションの頭が正確に捉えた。しかし、今回のセネガル代表チームはどのような逆境に陥ろうと決して動じなかった。それは、バオバブの木のごとく、どんなに過酷な時代であろうと、どんなに虐待を受けようと、頑として耐えてきた国民性と同様だった。彼らはサッカーを心から楽しんでいた。前半30分過ぎに、アンリ・カマラは味方がヘディングで競り合ったあとのルーズボールを胸で落として自分のものにすると、ディフェンスをかわしペナルティエリアの外からゴールポストの根元すれすれに正確なシュートを放った。セネガルは試合を振り出しに戻した。後半は両チーム無得点のまま、試合は延長戦に突入した。セネガルの選手たちは、歴史をつくり続けたいという夢と、手にしようとしているものを失うかもしれないという恐れに挟まれながらピッチに立っていた。

延長に入ると、オープニングマッチでフランスに起きた不運がスウェーデンにも襲った。スウェーデンのシュートはセネガルのゴールネットを揺らすのではなく、左のゴールポストを叩いた。そして、勝利を呼ぶプレーを見せたのはセネガルだった。のちにスペインのデポルティーボ・アラベスに入団することになるパペ・ティアウがボールをキープしたまま右に流れると見せかけてヒールでアンリ・カマラにパスをつないだ。アンリはディフェンダーを引き連れたままドリブルでペナルティエリアまで進むとグラウンダーのシュートを流し込んだ。このゴールはセネガルの決勝点となり、ベスト8入りを達成した。

次の相手はトルコだ。セネガルとしては少々やりにくい相手だった。あまりにも整然とし、ひどく粘り強いサッカーをする。両者無得点のまま延長戦に入ったが、〝テランガのライオン〟には魔の延長戦となった。危険が迫っているようには見えなかったが、トルコの右サイドからのクロスをイルハンがハーフボレーで決めた。センセーショナルなシュートはゴールデンゴールとなり、セネガルの敗退が決まった。しかしワールドカップでの素晴らしい功績のおかげで、多くの選手がキャリアアップすることができた。例えば、ブバ・ディオプはフラムFCへ、ファディガはインテルナツィオナーレ・ミラノへ、ディウフはリヴァプールFCへ、主将のアリウ・シセはバーミンガム・シティFCへそれぞれ移籍した。

見事な功績を残したものの、セネガル代表は好調を維持できなかった。その後、ワールドカップへの切符をつかむことはなく、CANでも頂点に立つことはなかった。セネガルは再び厳しい現実と向き合うことになったが、2018年に復活の兆しを見せた。2度目のワールドカップ出場をかなえると、CANでも2度目の決勝戦進出を果たした。ちなみに、アリウ・シセは、2002年のワールドカップとCANの決勝進出時はキャプテンマークを腕に巻いていたが、2018年のワールドカップとCANの決勝進出時は監督としてベンチから指揮を執っていた。

◼︎VARに泣いたカイロの決戦

senegal-20192019年のアフリカ大陸の偉大なる大会は、私たちに計り知れない歴史的価値をプレゼントしてくれた。エジプトが開催国となるその大会は第32回目のCANである。CANは、アフリカ大陸全土の基盤を固め、アフリカの人々の意気を高めた。重苦しさのつきまとう日常から解放された人々は、非日常の体験を楽しんだ。サッカーこそが盟友となって心に残る数々のエピソードを生み出すのだ。エジプト大会ではこれまでになかったことがいくつか記録された。どうやらアフリカサッカーはその未来に向けて重要な局面を迎えているようだ。Getty Images

まず、出場国数が史上最多だった。優勝杯を獲得し、栄光の味を知り、全国民からの誇らしげな眼差しを向けられることを願い、24か国が集結した。出場枠の増加によりマダガスカル、ブルンジ、モーリタニアといったそれまで世界の舞台とは無縁だった代表チームが初出場を飾ることができた。もうひとつの大きなニュースは、6月21日から7月19日までに変更された開催日程だ。これまでCANは毎回年初に開催されていたが、これには大きな弊害があった。欧州のクラブは公式戦の予定が1月と2月はぎっしり詰まっているからだ。リーグ戦だけではなく各種トーナメントもあり平日も埋めている。特にフランスのリーグ・アンの場合は、2年ごとに多くのサッカー選手が不在となるため各クラブにとって不都合が生じていたのだ。そして最後は、ビデオ判定の導入である。準々決勝から採用されることになった。オフサイドを正確に判定することで無効なゴールを検出するのには役立ったが、問題を完全に根絶することは難しい。特にペナルティエリア内でのハンドについては解釈が分かれており、ビデオ判定でも解決は困難だろう。

当初、2019年大会のCANはカメルーンで開催予定だった。しかし2018年末にアフリカサッカー連盟(CAF)の代表団が、開催予定地のインフラ状況などを現地に訪問して調査したところ、会場の多くが未完成で、大会の開催に支障がありそうだということが露見したのだ。アフリカサッカーの最高機関であるCAFの会長は、30年間君臨したカメルーン人イッサ・ハヤトウの後継者であるマダガスカル人のアフマド・アフマドだ。ハヤトウは在任期間中に、ワールドカップをアフリカ大陸に招致し、CANの参加国を増やして、大陸を5つのゾーンに分けた組織改革を行った。が、大きな黒い影もあった。2010年のCANでトーゴ代表団がテロ襲撃の犠牲になった後の事後処理(トーゴ代表は大会出場を続けられなかった)、いくつかの内部汚職事件、「アラブの春」後にエジプトで起きた暴動事件などによるサッカー危機への不十分な対応、ガーナ国内リーグにおける八百長試合のスキャンダルなど、これらがハヤトウの経歴の汚点として残された。それに加えて、アフマド・アフマドとハヤトウの関係もひどいものだった。アフマドはハヤトウに対する復讐のためにカメルーンから開催権を剥奪したのだという非難の声も多く挙がっていた。

それでもこうした問題は、カメルーンが直面している大問題に比べれば些細なものだ。紛争の根源は領土とその領土への帰属意識だ。歴史を振り返ってみよう。1884年のアフリカ分割に関するベルリン会議で、カメルーンはドイツの植民地となったが、第一次世界大戦で疲弊したドイツは自国の再建に集中するようになる。アフリカの植民地に構っている場合ではなかったのだ。1919年になると、ヴェルサイユ条約にて国際連盟は、その領土をフランス領カメルーンとイギリス領カメルーンの2つに分割することとした。フランス領カメルーンには自身の統治機関があったが、イギリス領カメルーンは隣国ナイジェリアから管理したためイギリスが直接開発に力を入れるような行動は取られなかった。

1960年にカメルーンが独立した時、2つの領土をどうするべきかという問題が起きた。まずはアマドゥ・アヒジョ(大統領、任期:1960-1982)が、そして今はポール・ビヤ(大統領、任期:1982-)がフランコフォニーを指針に国を統治し、それによりアンバゾニア地域[訳注:カメルーン国内の分離独立運動が展開する地帯。独立を主張する地域であり、南カメルーン連邦共和国と自称している]に位置する英語圏に対して屈辱を与えてきた。そのため同地域に住む600万の人々は、自分たちは蔑まれており、どの領土にも属していないと感じたことから、問題解決を中央政府に要求した。ポール・ビヤは40年近く政権の座にすわり、中央政府は教育をフランコフォニーの方向に持ってきたが、アンバゾニアはそれが気に入らない。2017年、同地域の抗議活動に対してカメルーンの軍隊は空からの攻撃で応酬し、住民たちの気持ちを燃え上がらせた。すでに50万人以上の人々が家を捨て、その多くが隣国ナイジェリアに庇護を求めている。しかし、カメルーンの南西部はカカオの生産が盛んであり、そのおかげで経済的には豊かな地域となっている。2018年の選挙運動中、ビヤは再選した暁には、アンバゾニア地域との和解を進めると約束をした。ところが選挙に勝利すると―合法性に問題が無いこともなかったが―約束を反故にし、弾圧を始めた。同地域の独立運動はいっそう激化し、紛争が解決に向かう兆しは全く見えなくなった。

カメルーン社会にとって致命的ともいえる問題の妥協点を見つけられないことに加え、スタジアムの建設遅延問題も重なり、最終的に2019年のCANの開催地はピラミッドの足元、雄大なナイル川の岸辺に変更された。アフリカ大陸最大のサッカー大会は7大会ぶりに北アフリカに戻ってきた。エジプトでの大会は期待を裏切らなかった。特に2つの歴史的な快挙が注目を浴びた。トーゴやナイジェリアと国境を接する国ベナンは、過去に3回出場して一度も予選を通過したことがない。だがベナン代表〝リス〟軍団[訳注:2022年に愛称が〝リス〟から〝チーター〟に変更]は初戦でガーナの意表を突き2-2で引き分け、2ゴールを挙げたベテランのミカエル・ポテは狂喜した。続く2つの試合も引き分けてベスト16へ進出。そこでは優勝候補のひとつ、エルヴェ・ルナール監督率いるモロッコが待ち構えていたが、ベナンはゴールキーパーのアレグベが見事なセービングを連発して英雄的ともいえる粘りを見せた。後半終了間際にはPKのピンチに立たされたが、ハキム・ツィエクのシュートを阻止してチームを救った。試合は延長戦でも決着がつかずPK戦に突入。ここでもまた、アレグベが魔法にかかったかのような活躍を見せた。モロッコのエン=ネシリのゴールを拒み、ベナンはベスト8へと駒を進めた。これがひとつ目の歴史的快挙だ。

もうひとつの快挙は、マダガスカルがなんとベスト8に進出したことだ。〝コブウシ〟は大会初出場だったが驚くべき個性を発揮した。マダガスカルは無名の選手ばかりだが、伸び伸びとしたプレースタイルでグループステージを1位で通過すると、ベスト16ではコンゴ民主共和国をぎりぎりまで追いつめると、最後はPK戦に持ち込んでコンゴを打ち負かした。マダガスカルは準々決勝でチュニジアに敗れこそしたが、歴史的デビューを飾ることができたといえよう。ただ、これら2か国の快挙と同等、あるいはそれ以上に衝撃的だったのは、エジプトがベスト16で姿を消したことだ。〝ファラオズ〟はフォワードにモハメド・サラーを擁していたが、試合終了直前に対戦相手の南アフリカのカウンターアタックから失点し敗退した。エジプト同様に、この大会では強豪国が次々と倒されていき、最終的に決勝戦はセネガルとアルジェリアが激突することになった。

本大会に臨んだセネガル代表は、エースのサディオ・マネを主軸に、恵まれた体格を生かして守りを統率するセンターバックのカリドウ・クリバリ、神出鬼没のプレーでボールを奪取するミッドフィルダーのイドリッサ・ゲイエ、ロケット弾のような強烈なシュートを放つ点取り屋のエムベイェ・ニアンとイスマイラ・サールを擁していた。〝テランガのライオン〟はさほど窮地に陥ることもなく勝ち進んだが、準決勝のチュニジア戦は厄介だっだ。チュニジアの監督アラン・ジレスはセネガルの元監督ということもあるが、試合も延長戦までもつれたのだ。延長前半10分になった頃、チュニジアのゴールを守るアセンのはじいたボールが味方のディフェンダー、ブロンに当たりオウンゴールとなって均衡を破ったセネガルだったが、1点リードしたまま、延長戦も残り5分まで時計の針が進んでいくとピンチが訪れる。チュニジアがスローインをロングスローでペナルティエリア内まで投げ入れるとセネガルのディフェンダーが頭でクリアしたボールは近くにいた味方の腕に当たってしまったのだ。主審は、一度はPKを宣告したが、VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)が介入した結果、判定は覆った。チュニジアのPKは取り消しになったのだ。こうしてセネガルは辛うじて勝ち星を拾うことができた。

セネガルはついに史上2度目の決勝進出を果たしたが、心配の種もある。本大会最高のディフェンダーであるクリバリがイエローカードの累積により出場停止となってしまったのだ。

一方、対戦相手のアルジェリアは、祖国の国民が不安定な社会情勢に苦しんでいる姿に心を痛めながら、全戦全勝で勝ち上がってきた。アルジェリアは大規模な社会的混乱に陥っていた。「アラブの春」の動乱の中で同地域の大統領たちが連鎖的に倒れていった。そうした中でも政権を維持したのがあの政治的激震を無傷で乗り越えたアルジェリアの最高指揮官アブデルアジズ・ブーテフリカだ。両親はアルジェリア人だが、生まれた場所は当時フランス保護領だったモロッコのウジダだ。ブーテフリカは19歳の時にモロッコを出て両親の出身地へ行き、民族解放戦線(FLN)に参加すると、植民地時代から昇進を続け、大舞台に躍り出るための絶好の機会を待っていた。FLNは1962年のアルジェリアの独立以来、一党独裁体制を続け、1990年代からは選挙を通して国の覇権を握って統治してきた。ブーテフリカは外相時代にアルジェリア大使館の資金を横領したとして告訴され有罪判決を受けている。その金は将来外務省のビルを建てるために蓄えたものだと答弁したが、現実としては、7千万ディナールの大半は行方がわからないままだ。恩赦は受けたが、名前はすでに汚れていた。

1988年、原油の1バレル当たりの価格が30ドルから10ドルに下落した。石油に過度に依存した経済はこの状況に耐え得るべくもなかった。収入が不足し始め、貧困化が進む国民に不穏な空気が広がり始めた。アルジェリア内戦(1992-2002)では大量の血が際限なく流れ続けた。1991年末、アルジェリアで初めての民主的な選挙が実施され、FLNの一党独裁体制がぐらついた。強敵のイスラム救国戦線(FIS)が前方に立ちはだかった。独立以来アルジェリアで支配的な世俗主義を終わらせることを公約とするイスラム過激派の政党だ。大学生たちによって引き起こされたイスラムの潮流が大きなうねりとなり、いくつかの地方選挙でFISが勝利した。数か月後、新たな国を生成する重要な起点になるのではと思われる事態が生じた。第一次選挙の投票でイスラム政党が得票の47パーセントを獲得するという圧倒的なデータが発表されたのだ。最終的な勝利もほぼ間違いない。

覇権主義のFLNの命も風前の灯火に見えた。しかし思わぬ事態が発生した。当時の大統領シャドリ・ベンジェディードを支持していた軍部は選挙を中止し、ベンジェディードを辞任させると、FISは民主主義を破壊するという口実の下、FISを解散させて何千人という活動家を投獄し、非常事態を宣言した。だが、嵐が近づいているのに、イスラム原理主義派が手をこまねいているわけがなかった。いくつかの民兵部隊を組織すると、FLNに肩入れしている軍隊と戦った。内戦は「暗黒の10年」あるいは「テロルの10年」として知られ、テロが次から次へと発生した。1997年から1998年にかけて大虐殺がもっとも多く横行し、紛争開始時から数えると死者数は累計で20万人に達した。

アブデルアジズ・ブーテフリカは内戦終結に決定的な役割を演じた。暴力に倒れた被害者の家族の神経は傷つき、目からはまだ涙があふれ出てくる。そのような中、ブーテフリカは前倒しで実施された選挙を利用した。彼が立候補し選挙に勝つためには少しばかり問題があったが、軍のある派閥の支持を受けていたことや、敵の残党が戦意を失っていたこともあり、1999年に大統領に選出された。ブーテフリカはイスラム武装集団と交渉し、殺人罪を犯していないゲリラ兵士に恩赦を与え、国土が荒廃した今だからこそ、アルジェリアを心温まる国へと円滑に変えていこうと提案した。

まさにこの「調停者」というレッテルによって、ブーテフリカは選挙での勝利を重ね、通算20年も政権の座を保つことができた。2013年以降は大きな健康上の問題で十分に職務を果たせなかったため、2019年の選挙には姿を現さないだろうと思われたが、再び大統領に立候補することが発表されるとアルジェリア社会に様々な反応が吹き荒れた。これまでの暴動と違い、今回は抗議の焦点が分散していた。女性たちは諸権利の向上を求め、学生たちは欠陥だらけの大学教育の改善を要求し、失業の増大に抗議する集団もいくつかあった。ブーテフリカの右腕である軍の参謀総長ガイド・サラは元上司に対する反対運動を開始すると、いくつかの汚職容疑でブーテフリカを告発し、大統領候補の資格を剥奪することに成功した。

こうして、〝砂漠のキツネ〟が勝利するたびに歓喜し、その一方で繰り返される選挙の延期に対する抗議が広がる中、アルジェリアで高電圧がかかったような行動が引き起こされた。2019年の2月以降、毎週金曜日に、アルジェやオランなどの都市で平和的なデモ行進が組織され、ブーテフリカの軍政府の遺物をことごとく消し去るよう要求したのだ。

こうした国情を背景にアルジェリア代表チームはCANを戦わなければならなかった。本命のモロッコやエジプトの陰に隠れながら、ゴールキーパーのライス・エンボリやディフェンスのアイサ・マンディを中心とした堅固な守備システムに加え、司令塔のイスマエル・ベナセル、品格のあるアダム・ウナス、潜在力のあるユセフ・ベライリとバグダード・ブーンジャー、そしてなんといってもチームをリーダーシップで引っ張ることのできるリヤド・マフレズを揃えた攻撃陣の活躍で勝ち抜いてきた。準決勝ではナイジェリアと対戦し、1-1の同点で迎えた94分(後半のアディショナルタイム)に、アルジェリアはペナルティエリアの前で直接フリーキックのチャンスを得た。キッカーのマフレズは慈しむようにボールを手に取ると、大切なものであるかのようにひと撫でしてから、主審の指し示したポイントにそっと置いた。そしてボールは、この優雅な振る舞いのサッカー選手の左足から飛び出すと、弧を描いてゴール隅に突き刺さった。

アルジェリアは、自身が開催国でもあった1990年の大会で決勝戦に到達して優勝を果たした。そして2019年のエジプト大会でも優勝した。つまり2度の決勝戦で2度勝利を飾ったことになり、文句なしの実力を見せつけることができた。

2019年の決勝は、〝砂漠のキツネ〟にとって夢のような滑り出しとなった。試合開始後2分でフォワードのブーンジャーが情け容赦なく先制ゴールを決めたのだ。アルジェリアのストライカーは巨人のように現れて、セネガルのセンターバック2人を蹴散らし、ペナルティエリアの正面付近からシュートを放った。ボールは、スライディングで阻止しようとしたセネガルのサリフ・サネに当たると大きな弧を描くように浮き上がり、ゴールキーパーのゴミスの頭上を越えてゴールマウスの中へと収まった。この後、試合は膠着状態に陥った。セネガルは両サイドにサールとマネを配した非常に攻撃的な布陣を敷いていたが、アルジェリアのペナルティエリアへ到達する道を見つけられない。後半になり、ようやくセネガルが攻撃力を発揮し始めたが、アルジェリアのベテランキーパーであるエンボリが威厳のある姿を現し、セービングの幅広いレパートリーを披露した。すると61分、一つのプレーにアルジェリアの旗で埋まったカイロ国際スタジアムの観衆が全員沈黙した。セネガルの攻撃時に、右サイドからのクロスがペナルティエリア内にいたアルジェリア選手ゲディウラの手に触れたのだ。カメルーン人の主審はPKの判定を下した。しかしVARによる確認後、審判の判定は訂正されてアルジェリアが1点をリードしたまま試合は続行された。やがて試合終了の笛が吹かれ、アルジェリアはアフリカ王者の座を奪還した。セネガルは準決勝ではVARに救われたが、決勝ではVARの判定に涙をのむこととなった。

サポーターの波がアルジェリアのどの街角にも押し寄せ、祖国への誇りに深く根づいた成功を祝った。奪い取った自由を政治指導者たちが国民に返すと保障してくれる選挙を夢見て、何か月も抗議を続けてきた人々の祖国への帰属意識が、ピッチの上での勝利により倍増した。一方セネガルは、2002年大会と同様、栄光への一歩手前で泣くことになった。その涙も翌日には〝テランガのライオン〟を出迎えるためにダカールの街にあふれた何千というセネガル人の歓呼に変わった。準優勝を祝そうと、選手バスの周りにファンが押し寄せた。いつかは国際的タイトルを獲得して、できるだけ早くその物語を締めくくってほしいと選手たちを激励した。

※2021年CA N で、セネガル代表は初の優勝を成し遂げている。senegalGetty Images

 

●書籍紹介

不屈の魂 アフリカとサッカー

目次
PRÓLOGO
INTRODUCCIÓN
1 南アフリカ/マンデラ、木を揺らす者
2 エジプト/アラブの春がこだまする
3 ザンビア/アフリカのサッカーには記憶力がある
4 マリ/セイドゥ・ケイタ、平和のために
5 ナイジェリア/〝スーパーイーグルス〟は天高く舞う
6 トーゴ/血と石油
7 カメルーン/ライオンの本能
8 アルジェリア/サッカーか宗教か?
9 南スーダン/末っ子国家
10 コートジボワール/ゴールはもっと多く、武器はもっと少なく
11 コンゴ民主共和国/政権のプロパガンダとしてのサッカー
12 赤道ギニア/サッカーとエボラとヘリコプター
13 南アフリカ/倒れた英雄、センゾ・メイワ
14 セネガル/閉じない輪
Columna1 私のアフリカ体験
Columna2 国民の喜び
Columna3 ラゴスの悪夢
Columna4 マダガスカル大冒険
EPÍLOGO
解説 アフリカでの過酷な体験/中町公祐

著者=アルベルト・エジョゴ=ウォノ(Alberto Edjogo-Owono)

1984年、スペイン・バルセロナ生まれ。地元CEサバデルのカンテラで育ち、2003年にトップチームデビュー。同年、父親の母国である赤道ギニアの代表にも選ばれる。2014年に引退し、その後はテレビ番組や雑誌のコメンテーター、アナリストとして活躍。現在は、DAZN、Radio Marcaの試合解説者などを務める。

 

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