西武などで先発左腕として活躍した杉本正氏(野球評論家)は、社会人野球・大昭和製紙(富士市)2年目の1979年に都市対抗野球大会で活躍、インターコンチネンタルカップ日本代表にも選出されるなど飛躍した。1年目よりも練習量を増やして、実力を伸ばした。「僕にはチームの環境もすごくよかったかもしれないです」。先輩野手からはいろんなアドバイスを受け、先輩投手には強烈なライバル心を燃やしたという。
1979年の大昭和製紙は7年連続出場となった都市対抗で準々決勝敗退に終わったが、激闘を繰り広げた。日本通運(浦和市)との1回戦は延長12回3-3で引き分け再試合となって2試合目に4-0で勝利。新日鉄広畑(姫路市)との2回戦も延長12回5-5で引き分け再試合、こちらも2試合目を6-3でモノにした。2-3で惜しくも敗れた準々決勝の日産自動車(横須賀市)戦まで、5試合を戦った。そのすべての試合に先発したのが杉本氏だ。
「僕は1年目の秋くらいから主力でも投げ始めたんですけど、2年目からはもうフルタイムで、どの大会でも先発していました。都市対抗もそうでした」。当時の大昭和製紙のエースは杉本氏より10歳年上の鈴木政明投手。1970年代後半から広島で大活躍した山根和夫投手の実兄で、ドラフトで何度か指名されながらプロには行かず、その後、ヤマハ発動機、プリンスホテルにも在籍し、大昭和製紙入りした1968年から1987年まで20年連続で都市対抗出場を成し遂げる右腕だ。
そんな大エースが1979年の都市対抗では先発から抑えに回っていた。杉本氏は「僕の中に鈴木さんには負けたくないって思いがどこかにあったと思う」と振り返りながら、こう続けた。「社会人2年目になったぐらいに、地方遠征があった。あの頃は、旅館に泊って広間に布団を並べて寝る時代。襖越しに先輩たちが一杯飲みながら話している声が聞こえてきたんですよ」。その時の鈴木投手の声が耳に残ったという。
「別に僕の名前が出たのではないんですけど、“今の若いヤツは練習がどうたら、こうたら”って言われていて……」。それが杉本氏の負けん気に火をつけた。「それ以来、先輩がランニングを10本走るなら、僕は11本走ろうとか、ここまで走るなら、もう一歩先まで走ろうとか、っていうのを、常に思うようになったんです」。鈴木投手の発言の意図はともかく、結果的にはそのような練習の積み重ねが、社会人2年目の飛躍にもつながったわけだ。
「先輩(内野手)には、のちにヤマハの監督もされる山本秀樹さんもおられて、とてもかわいがってもらいました。野手としての心理とか、いろんなアドバイスも受けました。鈴木さんの存在もそうですし、(大昭和製紙は)僕が野球をやる上で環境も、すごく良かったのかもしれないって思いますね」と杉本氏は先輩たちに感謝している。
ちなみに、この社会人2年目の都市対抗でバッテリーを組んだのが、河合楽器からの補強選手でチームに加わっていた6歳年上の大石友好捕手(元西武、中日)だ。この先、西武で同僚となり、中日には一緒にトレードで移籍するなど、杉本氏にとっては縁深い人になるが、その最初の“出会い”がこの時だった。「大石さんは、その年(1979年)に西武にドラフト(3位)で指名されてプロに行ったんですよね」と懐かしそうに微笑んだ。
杉本氏はこの都市対抗での力投が評価されて、1979年にキューバで開催された「インターコンチネンタルカップ」の日本代表にも選出され、日本の準優勝に貢献した。「初めて海外に行ったんですけど、(プリンスホテルの)石毛(宏典)さん(元西武、ダイエー内野手)、中尾(孝義)さん(元中日、巨人、西武捕手)や(日本鋼管の)木田(勇)さん(元日本ハム、大洋、中日投手)とか錚々たるメンバーでねぇ……」。
その中に交じって杉本氏も結果を出した。「右も左もわからない時でしたし、すごい人ばかりだったですけど、10試合あって規定(投球回)の10イニングは投げさせてもらいました。確かニカラグア戦で1勝したんじゃなかったかな。結構、成績はよかったと思います」。静岡・御殿場西時代から武器にしていたカーブに磨きをかけた。「社会人でも自分のカーブを打たれることはあまりなかったというのはありましたね」。
大昭和製紙で順調にレベルアップしていった杉本氏は、翌社会人3年目の1980年にさらなる結果を出す。それはいろんなことも重なってのこと。そして、入社時には考えてもいなかったプロの世界をもたぐり寄せることとなる。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)