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好調の助っ人にイラ立ち「頭に来ていた」 “怠慢”走塁も…離脱後に成績向上

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キャリア最多32本塁打の裏で…4番マニエルが“悪影響”

 勝負強い打撃に定評があった元近鉄・栗橋茂氏(藤井寺市・スナック「しゃむすん」経営)は、プロ6年目の1979年にキャリアハイの32本塁打を放って、近鉄球団初のリーグ優勝に貢献した。だが、広島との日本シリーズでは不振だった。第7戦(11月4日、大阪)で近鉄が1点を追う9回裏に無死満塁と攻めながら、広島守護神・江夏豊投手に封じられた“江夏の21球”の時も、前の回で代打を出されてベンチに退いていた。「何か打つのが嫌になっていた」と話した。

 1979年の栗橋氏は前期12本塁打、後期20本塁打の計32本塁打をマークしたが、調子には結構、波があった。この年にヤクルトからトレード加入の“赤鬼”チャーリー・マニエル外野手が開幕から4番で打ちまくったが、その時は不調モードだったという。「マニエルが打つから意識するんだよね。それ以上、打とうとすると、しんどくなるんだよ。やっぱり力が入っていたよね」。

 主にマニエルの後の5番打者で起用されたが、打席でのリズムも悪かったそうだ。「マニエルは、1アウトサードで、カウント3ボール、ノーストライクになって、俺が歩け、歩けって思っていたら、届くところは(犠牲フライなどで)打点を取りに行くからね。すると2アウトランナーなしとかになって……。マニエルがセカンドランナーで俺が打って、ヨッシャーと思ったらサードで止まっていたりとかもあったし、結構頭にも来ていたんだよね」。

 6月9日のロッテ戦(日生)でマニエルはアゴに死球を受けて一時離脱。チームにとっては大打撃だったが、実際、栗橋氏はその頃から調子を上げていった。ところが、前期の終盤6月24日の南海戦(藤井寺)から後期2試合目・7月7日の西武戦(西武)まで5試合連続無安打とまた苦しい時期がやってきた。「あの時は(近鉄監督の)西本(幸雄)さんがスポーツ紙に『栗橋はプロじゃない』ってコメントしたんだよね。で、そこからまた打って……」。

 7月11日の南海戦(日生)で1本塁打を含む3安打1打点、7月12日も1本塁打と結果を出して再び勢いづき、7月15日の阪急戦(秋田)では3本塁打4打点とさらに大暴れ。「西本さんの発言に奮起したと思われているけど、そんなんじゃないよ。たまたまだよ。それを覚えているのは、秋田で3発打った時、西本さんがミーティングで俺を褒めちぎったから。そこまで何も言っていなかったけど、3発はさすがに言わなきゃいけなくなったんじゃないのかな(笑)」。

“江夏の21球”の前に交代…日本S7戦で18打数2安打

 後期の近鉄は2位に終わったが、再びきっかけをつかんだ栗橋氏は7月6本、8月9本と本塁打を量産した。最終的には全試合に出場してキャリアハイの32本塁打。3勝0敗で後期優勝の阪急を下して球団初のリーグ優勝を決めたプレーオフでも、第1戦(10月13日、大阪)で山田久志投手から一発を放った。だが、3勝4敗で日本一を逃した広島との日本シリーズではまた不調となり、本来の力を発揮できなかった。全7試合にスタメン出場したが18打数2安打1打点に終わった。「短期決戦はマークがきつかったね」。

“江夏の21球”で有名な第7戦の9回裏の攻防にも栗橋氏は絡んでいない。すでに江夏が投げていた8回1死で打順が回ってきたが、代打・梨田昌崇捕手を出されて交代していた。「日本シリーズでの印象が悪かったからね。まぁ、それも仕方ないだろうと思った。やっぱり、それくらい(状態が)悪かったよね。何かあの時の俺は打つのが嫌になっていた。打席に立っても打てないだろうなってね」。強気な栗橋氏がそこまで言うのだから、よほどのことだったのだろう。

 いいときも悪いときもあったプロ6年目シーズンだが、最後の最後は、いいことで締めた。「あの年、日米のオールスターゲーム(11月14日西宮、11月20日後楽園の2試合)があったんだけど、日本の外野手は(広島の)山本浩二さん、(阪急の)福本豊さん、(ヤクルトの)若松(勉)さんと俺の4人だったんだよね」。2試合とも途中出場で1打数無安打1四球だったが、そのメンバーに入ったこと自体が勲章だった。

 それはプロ7年目の翌1980年シーズンへの大きな励みにもなったようだ。数々の“伝説”の持ち主である栗橋氏はその年、キャンプ早々に肩を負傷するアクシデントに見舞われながらも、開幕には間に合わせて、キャリアハイの打率.328をマークし、近鉄の2年連続優勝に貢献。バファローズの中心選手として、その豪傑ぶりもどんどん増していった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)