“ミスター”の愛称で親しまれた長嶋茂雄さんの一周忌が過ぎた。長嶋さんは現役時代、数々の名プレーでファンを熱狂させ、監督としても“メークドラマ”と呼ばれる大逆転でのリーグ制覇(1996年)を果たすなど、印象的な場面が数多い。セ・リーグ最多の通算579盗塁を記録し、通算2000安打にも到達した柴田勲氏は、巨人9連覇時代をともに支え、第1次長嶋政権下でもプレーした。「大変なご苦労をされたと思いますよ」。“ミスター”の指揮官1年目を回想した。
長嶋さんは1974年限りで現役を引退すると、1975年シーズンから監督として指揮を執った。栄光の背番号「3」から「90」に変更。「クリーン・ベースボール」のスローガンを掲げて臨んだが、結果は球団史上初の最下位と一敗地に塗れた。
「まだ長嶋さんは39歳の青年監督でしたからね。実は長嶋さんの選手引退と監督就任は、本当はもう1年早かったはずです。2年前に僕と王(貞治)さんが監督の川上(哲治)さんに呼ばれて『俺が辞めた後は、長嶋を助けてやってくれ』と仰られた事がある。いずれにしても選手からすぐ監督になられて、指導者の経験はほとんどなかったので……」
選手から監督へと立場が変わったことで、自身も周囲も、どう振舞ったらいいのか、どう接すればいいのか戸惑い気味だったという。柴田氏は宮崎キャンプを思い出す。
「雪がチラついた時があったんです。僕が打撃練習をしていると、長嶋さんが『オイ柴田、こんな日にやってもあまり身にならないよな。早く帰って休んだ方がいいよな』なんて冗談を飛ばすんです。少し経って監督から『選手集合』の声が掛かりました。僕は『今日はもうホテルに戻って体を休めよう』なんて指示があるものだと考えていた。他の選手たちも喜んで集まった。でも『こういう寒い日は寒稽古といって身になるんだぞ』と仰ったりしてね」
前任の川上監督は「ドジャースの戦法」など緻密な野球を取り入れ、“哲のカーテン”と表現されるほど、報道陣と一線を画した。「長嶋さんのミーティングはなかった。あれほどの大スターですから、ファンもメディアも大切にして時間も割かなきゃならないですしね。僕らは長嶋さんがどういう野球をやるのか分からなかった」。
1975年、巨人はシーズン序盤から低迷した。長嶋“監督”が率いるチームには、「4番・三塁」が代名詞だった長嶋“選手”はいない。球団は4月半ばにメジャーリーガーのデーブ・ジョンソン内野手を獲得したが、泥沼から抜け出せなかった。
柴田氏といえば俊足を活かした中堅の名手。ところが、6月19日の大洋戦(川崎球場)では、8回にプロ入りして1軍で初めて三塁の守備に就いた。
「ありましたねぇ。確か代打とかを使って内野手が足りなくなっちゃったのかな。ジョンソンも、数年前に南海から移籍してきた富田(勝)も頑張ったけど、長嶋さんの代わりになんて誰もなれませんよ。穴が埋まらない。僕は他の試合では投手をする可能性もあった。大差で負けていて、(ブルペンには)次の日の先発予定の人ぐらいしかいない。長嶋さんから『柴田、ピッチングをしろ!』と言われて準備しました。結局は登板しなかったですが」
巨人が最下位に終わったのは、長い歴史のなかで1975年の一度きり。「僕らも、まさか最下位になるとは思ってもいなかったですね。長嶋さんが現役最後だった前年も2位でしたから」。だがスーパースターは、屈辱さえド派手な結末へのスパイスにしてしまう。翌年は日本ハムから張本勲外野手をトレードで獲得し、高田繁外野手を三塁手にコンバートさせるなど、大胆にチームを変貌させ優勝へと導いた。どん底から一気に頂点への離れ業に「長嶋さんは相当、勉強されたと思いますよ」と舌を巻く。
長嶋さんの監督1年目は最下位だが、観客動員数はV9時代を上回り、当時の球団最多を記録。8歳年下の柴田氏は、その理由をどう捉えたか。「長嶋さんはね、明るくて前向きで決して人の悪口は言わない。長嶋さんから野球を取ったら何も残らない。熱血漢なんです。やっぱりカッコいいんですよ」。監督になった長嶋さんを、ファンはより愛したのだろう。(西村大輔 / Taisuke Nishimura)