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阪神から突然の誘い「どうする?」 栄光のドラが1黙々とこなした“裏方”…巡ってきた「最後の勝負」

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太田氏が振り返る、プロ15年目に待っていた阪神移籍

“国民的スター選手”として名を馳せた太田幸司氏(野球評論家)は、プロ15年目の1984年限りで現役生活にピリオドを打った。前年(1983年)開幕前に近鉄から巨人に移籍し、そのオフに阪神へ移籍したが、1軍登板がなく、シーズン中盤には決断していたという。青森・三沢高時代に甲子園を沸かせ「コーちゃんフィーバー」を巻き起こした右腕は「甲子園で始まって甲子園で引退ということですからね」と不思議な縁も感じたそうだ。

 近鉄時代のプロ6年目(1975年)にキャリアハイの12勝を挙げたのをはじめ、2桁勝利を3度マークした太田氏だが、1979年10月に右肩痛を発症。それ以降は苦しい戦いが続いた。プロ14年目の1983年開幕前の3月下旬に石渡茂内野手とともに、トレードで巨人に移籍し、新天地で再起を目指した。31歳になった甲子園のヒーローは若手に交じって、ひたむきに練習に取り組んだ。だが、1軍登板なしでレギュラーシーズンを終えた。

 2年ぶりのセ・リーグ優勝を成し遂げた藤田元司監督率いる巨人投手陣の層は厚かった。江川卓投手、西本聖投手、定岡正二投手に加えて、プロ2年目の槙原寛己投手が12勝9敗1セーブの成績を残し、新人王に輝いた。そんななか太田氏は10月29日に開幕した西武との日本シリーズで1軍に呼ばれた。「日本シリーズの大きなメンバー枠には名前が入っていて、バッティングピッチャーをやってくれるかってことでした」。

 太田氏はその役目も黙々とこなした。そのとき、新たな展開があった。「日本シリーズが行われた後楽園でバッティングピッチャーをして、スタンドで試合を見ていたら(巨人の)編成の人が来て『太田よ。ウチは、お前がファームでしっかり若手の見本になって、やっているのはすごく評価している。だから来年も契約しようと思っているんだけど、阪神から声がかかっている。どうする?』って聞かれたんです」。

 プロ1年目(1970年)のオフ、太田氏は、青森から大阪に両親を呼び寄せて、一戸建てを購入して暮らしていた。だが、巨人移籍により単身で東京に行き、合宿所生活となっていた。そんな状況もあって、阪神への移籍を選んだ。「親も大阪に残していたし『阪神にお世話になります』と言いました。その時にはもう腹を括っていました。そこで駄目だったらユニホームを脱ごうという気持ちで行くことにしました」と最後の勝負の場と決めていた。

 1983年11月、太田氏は鈴木弘規投手との1対1のトレードで巨人から阪神に移籍した。もはや第2の故郷になった大阪での精一杯やり尽くす意気込みで安藤統男監督体制のタイガースのユニホームに袖を通した。背番号は交換相手の鈴木投手がつけていた「24」になった。1984年、米国ハワイ州のマウイキャンプメンバーにも入った。「オープン戦も結構投げましたよ。池内(豊投手)と最後まで争って、開幕1軍枠には入れなかったけどね」。

 結局、阪神では2軍で7試合に投げただけで1軍登板はなかった。「現状の自分が歯がゆかったですよ。ちょうど僕が入った時、(沖縄・興南高からドラフト3位入団の左腕・)仲田幸司(投手)が1年目だったけど、ランニングとかしたら僕の方が元気だったからね。でもブルペンでは、情けないボールしか放れなかったんでねぇ……(笑)。その辺のギャップとかも悔しかったですね」。夏頃には現役引退を決めたそうだ。

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元近鉄・太田幸司氏【写真:山口真司】

右肩痛で狂った歯車「後悔? ない、ない」

 超人気者だったゆえ、ドラフト1位で近鉄に入団した際は、女性ファンが殺到し大騒ぎになった。しかし「辞める時は、何人かの記者の前で『引退します』と言ったぐらいの感じだったかなぁ」と話す。1980年から現役ラストイヤーの1984年までの5シーズン連続で0勝。右肩を痛めてから大きく歯車が狂ったプロ野球人生だったが「後悔? ない、ない、ない。そりゃあ、あの時にもうちょっとこうしておけば、というのがあるけどトータル的にはね」と語気を強めた。

「だって、その時はそれがベストだと思ってやっているわけだから。あとで考えたら、こっちの方が良かったかなというのがあるかもしれないけど、人生、一つしか選べないわけだからね。両方いっぺんにはできない。周りが僕をどう評価するかはどうでもいいんですよ。ただ、自分が自分に対して『頑張ったね』っていうような声はかけられるな、と思っています」。尋常ではない人気を背負いながらプロ生活をスタートさせ、やれることはやったのだ。

 通算成績は318試合に登板し58勝85敗4セーブ、防御率4.05。「語呂がいいね。58と85の裏表で」と太田氏は笑い「まぁ15年やって、たかが58勝ですよ。でも僕はね、58勝よりも85敗。これを誇りに思っています。85敗も勝負どころで投げていたっていうことでね。人の評価と自分の評価は違うと思う。高校から鳴り物入りでドラフト1位で入ってきて1軍を経験できずにやめていく選手もたくさんいるわけですからね。多分いろいろ葛藤して、もがいて、それでも結果がでなかったんだろうなって容易に想像できますから……」と言って頷いた

 1969年、三沢高3年夏の甲子園決勝。松山商戦で延長18回、0-0引き分け再試合の大熱投は、太田氏を一気に全国区にした。そこから、いろんな戦いをくぐり抜けてきた。プロ2年目には自信を喪失して辞めることも考えた。3年目、甲子園球場での球宴で、巨人・王貞治内野手と長嶋茂雄内野手の“ON”をスライダーとシュートで封じてきっかけをつかんだ。5年目には初の2桁10勝、6年目には12勝をマークした。だが10年目に右肩を痛めて……。

「プロに入る前に僕はうまいこと行きすぎていた。それがプロでちょっと挫折を味わって、そこからある程度勝ちだして、今度は肩を壊して……。波瀾万丈というか、プロに入ってからのほうが紆余曲折、いいことも悪いことも。悪いことの方が多かったかもしれないけど、そういうことを経験したのは後々にも役立っているのかなと思います」。人気と実力を両立させるべく歩み続けた太田氏のプロ野球人生もまた伝説になっている。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)