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ボタフォゴ:FIFAクラブワールドカップ2025出場クラブ紹介

FIFA

ボタフォゴは、アメリカで開催されるFIFAクラブワールドカップ2025にCONMEBOLを代表して出場する6チームのうちのひとつとなる。

豊かな歴史を誇るブラジルのクラブについて、新たな世界的サッカー大会への出場権を獲得した経緯や、クラブを代表するレジェンドたちを紹介しよう。


出場権獲得方法

ボタフォゴは2024コパ・リベルタドーレス優勝を飾ったことで、FIFAクラブワールドカップへの出場を最後の32番目に決めたチームとなった。決勝ではアトレチコ・ミネイロとのスリリングな勝負を制して歴史的タイトルを獲得。試合のほとんどを一人少ない状況で戦いながらも3-1で勝利を飾る力強さを見せ、クラブ初の大陸タイトルを持ち帰った。


クラブデータ

  • 設立:1894年
  • スタジアム:ニウトン・サントス
  • 愛称:オ・グロリオーゾ

クラブの歴史

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ボタフォゴ・ジ・フッチボウ・エ・レガッタスは、リオデジャネイロの伝統的地区の名を冠しており、同地区で設立された2つのクラブが合併して生まれたものだ。ボタフォゴ地区は世界的に有名な2つの名所であるコルコバードのキリスト像とグアナバラ湾に東西を挟まれ、ポン・ヂ・アスーカルもよく見える。

まずは19世紀に、ボート競技専門のクラブ・ジ・レガッタス・ボタフォゴが誕生。続いて1904年にはボタフォゴ・フットボール・クラブが設立され、当初はエレクトロ・クラブと呼ばれた。2つのクラブは38年間にわたって様々なスポーツで競い合った末に、1942年に合併することとなった。

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ボタフォゴのサッカー部門はそれ以前からすでに、1932年から1935年までリオ州選手権4連覇を飾るなど大きな成功を収めていた。しかしクラブが絶頂期を迎えたのは、ブラジルサッカーの黄金時代でもある1950年代から1960年代にかけての時期だ。

壮麗なマラカナン・スタジアムも完成。“オ・グロリオーゾ”はサントスとともに、ガリンシャとペレをはじめとして、1958年と1962年のワールドカップ連覇を成し遂げたブラジル代表の屋台骨を構成していた。メキシコで圧倒的な戦いを見せた1970年のブラジル代表にもボタフォゴの選手が数多く含まれており、クラブの誇るアイドルの一人であるマリオ・ザガロが指揮を執った。

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しかし、頂上を過ぎると谷間が待っていた。1989年にリオ州選手権を制するまで、クラブは20年間にわたってタイトルから遠ざかった。1995年には、鋭いシュートを武器とするトゥーリオが伝統の7番を着て活躍し、チームにとって2度目となる全国タイトルを獲得。そこからはさらなる危機に見舞われ、2度のセリエB降格を余儀なくされた。現在は再びトップレベルで戦うチームへと返り咲いている。


歴代の名選手

ガリンシャ

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“脚の曲がった天使”ことガリンシャによって、ボタフォゴの背番号7は、おそらくペレがサントスの10番に与えたものに匹敵する特別な意味を持つことになった。1953年から1965年にかけてクラブで612試合に出場して240ゴール以上を挙げた右ウイングは、その予測不可能なスタイルでマラカナンの観客を魅了。奔放さと天才性を併せ持ち、ともにワールドカップ優勝メンバーとなったアマリウドやザガロ、ゴールを量産するクアレンチーニャらが構成する豪華攻撃陣を牽引した。

ニウトン・サントス

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並外れた戦術理解力とポジショニングの完璧さから“フットボール・エンサイクロペディア”として知られた左サイドバックは、ボタフォゴのスタジアムにその名を残している。16年間にわたってボタフォゴのユニフォームを身にまとい、プロとして最初のシーズン(1948年)と最後のシーズン(1964年)にどちらもタイトルを獲得。通算で実に723試合もの出場を重ねた。

ジャイルジーニョ

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ボタフォゴの攻撃陣でガリンシャの後を継ぐという名誉と困難の伴う任務を完遂することは、ジャイルジーニョほどの才能を持った選手でなければ不可能だった。“オ・フラカン(ハリケーン)”の異名を取った男は爆発的なスピードと非凡なフィニッシュ能力を兼ね備え、黒と白のユニフォームを着て412試合で189ゴールを記録。中盤のジェルソン、前線でコンビを組むパウロ・セーザル・カジューらとともに1960年代のボタフォゴ第二次黄金期を明るく照らした存在だった。