プロ1年目から開幕1軍入りを果たし、チームをけん引する活躍を見せる“逸材”が現れると、プロ野球は大いに盛り上がる。中日でMVPに輝くなど巨人、西武の3球団で名捕手として活躍した野球評論家の中尾孝義氏も、プロ1年目から116試合に出場した。その年のセ・リーグ新人王は、“若大将”の愛称で人気者だった巨人の原辰徳内野手。「原はやっぱりいいバッターでしたよ」と、中尾氏が当時を回想する。
1981年4月4日、中日は敵地・後楽園球場で巨人との開幕戦に臨んだ。中尾氏は原氏より3つ歳上で、日米大学野球の日本代表などで一緒にプレーした間柄。2人とも1位指名されたドラフト同期で、即戦力の期待に応え、開幕1軍メンバーに入った。「僕は凄く緊張していましたね。でも新人の年以降も開幕戦だけはずっと違った。緊張してもガタガタじゃなく、ワクワク感もあるし、いろんなことが気持ちに入ってくるんです」。
中尾氏は木俣達彦捕手の代走として出場し、7回にプロ初打席に立った。「今でもはっきり覚えています。バットにボールが当たった時の感触まで。ピッチャーは西本聖でショートゴロのゲッツーでした」。一方の原は「6番・二塁」で先発出場し、初安打を記録。中尾氏の打席では遊撃手から送球を受け、向かってくる走者を華麗にかわしながら一塁へ送球して併殺を完成させた。中日は1-3で敗れたが、中尾氏は「試合後に権藤(博投手コーチ)さんから、2戦目はお前が先発と言われました」と、翌日のスタメンを告げられた。
迎えた開幕2戦目。初の先発マスクとなった中尾氏は、エースの星野仙一投手とバッテリーを組んだ。2回には巨人の定岡正二投手からプロ初安打を放った。「左中間への二塁打ですね。インコースの真っ直ぐ。最初の1本は、やっぱり忘れられないですね」。巨人にリードされる展開だったが、原氏は無安打に封じていた。
3-5で迎えた8回。この回から中日は、“スピードガンの申し子”と称された小松辰雄投手を5番手として起用した。小松はロイ・ホワイト、ゲーリー・トマソン両外野手を連続三振に仕留めた。続く打者は原氏だった。中尾氏は打ち取るイメージができていた。
「アウトコース主体で抑える。小松は球が速いから、原は当然ストレートを狙ってくると思ってました。小松はカーブも良かったので」
初球は外角に決まるカーブ。2球目もほぼ同じようなコースにカーブが決まった。中日バッテリーの思惑通りタイミングが合っていない。2ストライクに追い込んだ。「3球目は直球を外に外し、その後は内を攻め、最後はまた外の変化球。そう考えてました」。
3球目はアウトコースでもボールゾーンに外すサインだった。だが、投球はやや内に入り、外角高めにきた。小松氏の真っ直ぐを逆方向の右翼席に運ばれた。「見逃したらボールだったかもしれない高さ。でもベース上に来ちゃったんで」と述懐する。原氏にプロ初本塁打を打たれ、試合にも敗れた。
中尾氏は悔しさよりも、原氏の技術の高さを絶賛する。「上手く打ったホームランだと思います。たぶん原の中でもベスト3に入るぐらいの良い打ち方だったのでは。グリップが下に落ちてバットのヘッドが立ってコーンと打った。自然にバットが出た感じ。彼はたくさん本塁打(382本塁打)を打ってますが、ほぼ引っ張りでしょ。その原の最初の一発がライトというところがね」。
原氏はプロ1年目に22本塁打を放ち、新人王に輝いた。さらにリーグ優勝、日本シリーズ制覇まで経験した。中尾氏は翌年の1982年にリーグ優勝の立役者となりMVPを獲得した。「今年の新人選手たちも頑張って欲しいですね。結果は考えなくていい。失敗しても構わない。失敗は成功のもと。失敗する事で上手くなっていくんです」。これから球界を背負って立つ後輩たちに向け、中尾氏はエールを贈った。(西村大輔 / Taisuke Nishimura)