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小学生で球速126キロ…プロも驚愕した“高校生超え” 確約されたNPB入り、怪物右腕の原点

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紀藤真琴氏は現在、株式会社EJフィールドの代表取締役

 広島など3球団でプレーし、先発でもリリーフでも活躍した右腕が紀藤真琴氏だ。現在は釣り竿「マコトに恐縮です」の販売やイベント企画などを手がける株式会社EJフィールド(広島市西区)の代表取締役として多忙な日々を送っている。もちろん、その根底にあるのは野球人として培った実績、経験、人脈などの“財産”だ。振り返れば、少年時代から“野球環境”が整っていた。家が近所で2歳上の工藤公康氏(元西武、ダイエー、巨人、横浜)からは大いに刺激を受けたという。

 紀藤氏にとって野球は物心ついたときから身近なものだった。「家に普通にグラブとボールが置いてあったんですよ。親父が高校、大学、社会人と野球経験者なのでね。昔の形のグラブ、今じゃ考えられない形で……。それをはめて遊んでいましたね」。投手だった父・住(ただし)さんは中京大時代に立教大・長嶋茂雄内野手と対戦。「親父の話なので、本当か嘘かわからないですけど、三振をとったそうです」。

 1965年5月12日生まれ、名古屋市出身の紀藤氏は、当たり前のように野球少年となっていった。身体能力も抜群だった。投打ともに抜けた存在だった。「お袋(京子さん)もソフトボールをやっていたんです。その影響もあったでしょうね」。さらにはレベルの高い先輩・工藤氏がこれまた身近にいたのも大きかった。「道路を挟んで目の前が工藤さんの家だったんです。いつも工藤さんは家の前でバットスイングやったりしていて、すごいなぁと思って見ていました」。

 同じ名古屋市立高坂小学校に通い「近くに酒屋さんがあって、空いた酒の瓶とかが置いてあったんですよ。一升瓶とか、ビール瓶とかがね。ちっちゃな公園があったので、それに砂を入れて手首を鍛えるヤツだと言って、一緒にやらされた覚えもあります。一緒に走ろうぜ、とか言われて走ったりとかもありましたね」。小学4年生から入れる小学校の軟式野球部でも先輩、後輩の間柄。工藤先輩に追いつけ、追い越せの気持ちも技量アップにつながったようだ。

 小学5年生から紀藤氏は、元中日、サンケイ・ヤクルト右腕の河村保彦氏の野球チーム「平針HBC少年野球クラブ」にも入った。「河村さんからはずっと誘われていたんですけど、それまで断っていたんですよ。(平日は)小学校の野球部もあるし、日曜日くらい遊びたいじゃないですか。それでも来いって……。その熱意に負けました。背番号は入った順に決まっていたのに『1番をやるから』って言われましたしね」。

中日の藤波と田尾に打撃を見てもらい「この子は言うことないです」

 元プロにそこまで惚れ込ませるほど、投げてよし、打ってよしの小学生だった。「自分で言うのもなんですが(投打の)両方得意でしたよ。ピッチャーをやりながらバッティングの方が好きだったんですけどね」。その頃に中日・藤波行雄外野手と田尾安志外野手から指導を受けたそうだ。「2人がHBCに来られたんですよ。ウワー、藤波と田尾だよって思って見ていたら、河村さんが『おい、ちょっと田尾と藤波、この子を見てやってくれ』って真っ先に出されたんです」。

 プロ2人の前で打撃を披露した。「今でも覚えています。何も指導せずに『この子は言うことないです』って言われたんです。田尾さんには『将来、絶対プロになれるから頑張れ』って。ただがむしゃらにやっていただけですけど、うれしかったですね」。その後のピッチングでも非凡な面をみせつけた。「スピードガンではかったら126キロだった。高校生の人が隣で投げていたんですけど、その人より自分が速かった」というからすさまじい。

 中日本拠地・ナゴヤ球場での野球教室に参加した際もプロをうならせた。「両親に連れられてナゴヤ球場に行って、子どもたちがひとりずつマウンドで投げるんですけど、一番最初に投げろと言われて、プロのキャッチャーの人に受けてもらったら、『凄いな』って言われたんですよ。それはちょっと自信になりましたね」。

 打っても投げてもプロから得た二重丸評価。「そりゃあ、多少おべんちゃらが入っているかもしれないですけど、子ども心にしたらうれしい出来事だったですね」。そんな小学生時代を経て、1978年、名古屋市立久方中学校の軟式野球部に入部。2年先輩の工藤氏と再び、同じチームになって、紀藤氏はさらに進化する。当たり前のように始まった野球人生の中身はどんどん濃くなっていった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)