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中日一筋36年…“江川キラー”の原点はお手伝い 忙しすぎた実家、擦り切れた「お尻」

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元中日の豊田氏が語る、野球を始めたきっかけ

 昭和の怪物右腕・江川卓投手(元巨人)を相手に、学生時代からインパクトある活躍を見せたことで知られるのが、元中日外野手の豊田誠佑氏だ。明大から1978年ドラフト外で入団。選手、コーチ、スカウト、選手寮「昇竜館」館長と中日一筋36年間のプロ人生を送り、現在は名古屋市中川区、名鉄山王駅下車すぐのところにある居酒屋「おちょうしもん」を経営している。そんな“江川キラー”は「中華そば屋と寿司屋」で育ったという。

 豊田氏は1956年4月23日、東京・台東区で生まれた。6人兄姉の5番目。「最初は浅草に住んでいました。親父はその頃、吉原で八百屋をやっていたんですが、その店が駄目になって練馬に引っ越したんです」。野球は練馬区立開進第三小学校2年の時に始めた。「1番上の兄貴が軟式の少年野球チーム・平和台ホープの監督をしていたんでね」と振り返る。

 ポジションは投手で、5年生くらいからエースだったという。「小学校の時はだいたい上手いヤツが投手をやるじゃないですか。当時の僕は体も大きかったしね。小学6年の時だったかな、夏にあった練馬区の大会で優勝しました。100チームくらい出た大会でね。“平和台に豊田あり”って言われていましたね」。

 3歳上の兄も、2歳下の弟も評判の野球選手で、“豊田3兄弟”としても有名だったそうだ。豊田氏は明大3年時の1977年春に東京六大学の首位打者に輝き、弟の豊田和泰外野手も明大4年時の1980年春に同リーグの首位打者のタイトルを獲得。“兄弟首位打者”と話題になったが、子どもの頃から、その片鱗はあったようだ。その上で、しみじみとこんなことを口にした。

「もし練馬に引っ越していなかったら、野球をやっていなかったんじゃないかなぁ。(前に住んでいた)台東区の辺って、ほぼアスファルトで、グラウンドがあまりなかったけど、練馬に来たら土があって、グラウンドがそばにあって、空き地もあったからね。それで野球ができたのかなと思うんですよね」。その練馬区に住まいが変わってから「ウチは中華そば屋と寿司屋をやるようになったんです」と話す。

休みは家の手伝い「お尻がすり切れるくらい出前した」

「まず始めたのが中華そば屋。親父は素人だからコックを雇ってね。で、それが繁盛して隣に寿司屋を出したんです。板前を使ってね。その後、中華そば屋は上から2番目の兄貴が覚えて、自分でやるようになったんですけどね」。練馬区立開進第一中学時代の豊田氏は、軟式野球部の練習を終えると寿司屋の方を手伝った。「出前、出前下げ、お客さんにお茶を出したりね。だから中学の時は全然遊んでいないですよ」と笑った。

「中学の(野球部の)練習なんか大したことないから、日曜、春休み、冬休みも手伝った。正月なんか強烈。あの辺、出前ばっかなんですよ。バイクには乗れないから自転車でね。お尻がすり切れるくらい出前しましたよ。親父も喜んでくれてね。兄弟みんなで手伝っていたけど『お前が一番(店の仕事に)向いている。高校を卒業したら板前になれ』って言われていたんです。僕も嫌いじゃなかったし、そういうことも考えていました」

 ハードな出前で足腰が自然と鍛えられたのか、中学軟式野球部では投手として頭角を現した。「中学3年の時は練馬区の大会で優勝して都大会に行った。2回戦くらいで有賀(佳弘捕手、元阪急、中日)とかがいた早実の中等部に負けちゃったけどね」。この頃から、高校での甲子園大会出場を夢見るようになり、進学先は「甲子園への近道」と日大三を選択した。のちの“江川キラー”は、板前への道も模索しながら、野球にのめりこんでいった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)