ラミン・ヤマルがバルセロナの新たな背番号10になる。新しく超高額な契約を結び、バルサの魂と言える背番号を受け継いだのだ。この背番号には複雑な歴史があり、過去にはそれを背負った多くの選手がバロンドールを受賞してきた。ヤマルも、その次なる受賞者となることを目指している。
このウイングの選手は、サッカー界の偉大な選手たちの足跡をたどりつつも、独自の道を切り拓くと誓い、次のように語った。「プレッシャーは感じていない。特別な背番号を背負っても、サッカーを楽しみ続けようと思う。クラブの信頼に感謝し、チームの遺産を継承するよう努力する」。
とは言え、直前にこの背番号を背負っていたアンス・ファティ(ラ・マシアの「天才少年」として期待された選手で、急激な転落を経験した)の苦境は、ヤマルがカンプ・ノウで重すぎる重圧を担う準備を進める上で警告となるに違いない。
では、18歳のヤマルが模範とすべき過去の背番号10の選手は誰か。以下、バルセロナの輝かしい歴史の中で最も優れた10人の背番号10をランキング形式で紹介しよう。
これからお伝えするように、バルサ史上、数多くの素晴らしいブラジル出身選手が有名な背番号10を着用してきたが、およそ70年前、その最初の選手だったのがエヴァリストだった。
1957年にその栄誉を授与されたセンターフォワードは、母国を離れてからの5シーズンで151試合に出場し、105得点を記録。スペインリーグのタイトルを2度獲得した。その後レアル・マドリーに移籍してからは成功を収められなかったものの、カンプ・ノウでの評価は今なお揺るぎないものである。
間違いなくルーマニア史上最高のサッカー選手であり、その世代で最も優れた攻撃的MFのひとりであるハジは、1994年、それ以前にプレーしていたレアル・マドリーとクラシコの宿敵であるバルセロナに移籍し、その背番号10を背負った。
ケガには悩まされたものの、ハジのカンプ・ノウでの2年間はまさに魔法のような瞬間で満ちており、30年経った今でもバルサとレアル・マドリーの双方のファンから愛されるという稀有な栄誉に浴している。
あのルイス・スアレスの前にいたルイス・スアレスは、スペイン史上最高の選手のひとりとして、1950年代から60年代前半にかけて背番号10を背負い、固定背番号制度が導入される前は短期間ながら背番号11をつけていたこともある選手である。
1960年にスペイン出身選手として初めてバロンドールを受賞し、その後ほどなくしてインテルに移籍。そこでもレジェンドとしての地位を確立した。
バルセロナで背番号10を背負ってバロンドールを受賞した数多くの選手のひとりであるブルガリアの英雄ストイチコフは、そのユニフォームを着てカンプ・ノウで最盛期を過ごした。
ブラジルのレジェンドであるロマーリオと強力な攻撃のコンビを組み、しばしば同じ背番号を共有したストイチコフは、1993-94シーズン、得点を量産してタイトル獲得に貢献。ゴールデンボール賞を受賞した。
バルセロナでプレーしたブラジル出身の数多くのカリスマのひとりであるロマーリオは、固定背番号制度が導入される前は、攻撃のパートナーであるストイチコフと背番号10を共有した。彼がバルサでプレーした期間は短く、激しいものだったが、甘美な思い出も多い。
1993年にPSVから移籍した彼のデビューシーズンは驚異的だった。ヨハン・クライフ率いる「ドリームチーム」の一員としてリーグ優勝を果たし、その間には32得点を記録。特にレアル・マドリーとのクラシコでハットトリックを決めるなど、輝かしい成績を残した。しかし、オランダ出身監督との不和のため1995年にブラジルへ帰国し、カンプ・ノウでのキャリアが短かったのは残念である。
ハンガリーの英雄として最も知られているのはレアル・マドリーのフェレンツ・プスカシュだが、クバラはクラシコのライバル関係の反対側で独自のアイコンとして君臨している。
このFWは、バルセロナがトロフィーに恵まれた10年間のうち4つのシーズンで背番号10を背負い、ブラウ・グラナで250試合以上の試合に出場して193得点という驚異の記録を打ち立てたが、そのうちの19得点は、デビューシーズンに26試合で記録したものだった。現役引退後にクラブの監督を務め、その功績を称える像がカンプ・ノウの外に建てられている。
バルセロナの輝かしい歴史の一翼を担うブラジルのスーパースター、リバウドは、1999年にバロンドールを受賞した後、背番号10番を背負うこととなった。
困難な移行期にあったチームを牽引し、2000-01シーズンにはリーグ戦で驚異の33得点を記録。その中には、チームにチャンピオンズリーグ出場権をもたらした、バレンシア戦でのハットトリック(そのうちの1点は衝撃的なオーバーヘッドで決めた)がある。翌年チームを去ったが、その影響力が忘れられることは永久にない。
このリストに載るアルゼンチン出身選手の2人のうち最初のひとりであるマラドーナは、バルセロナで2シーズンしかプレーしなかったものの、ナポリへの運命の移籍の前に、カンプ・ノウで強い印象を残し、リーグ優勝を果たした。
ケガに悩まされながらも、1982年に当時の世界記録である500万ポンド(約10億円)でボカ・ジュニアーズに加入したマラドーナは、ファンのお気に入りとなり、58試合で38得点を挙げた後、背番号10を背負ってさらに23得点を積みあげた。しかし、彼のカンプ・ノウでのキャリアは、1984年のアスレティック・ビルバオとのコパ・デル・レイ決勝戦で乱闘騒ぎを起こしたことで、不名誉な形で幕を閉じた…
調子のいい時のロナウジーニョは、誰にも止められなかった。史上最もテクニックに優れた選手のひとりであり、パリ・サンジェルマンから移籍した2003年から2008年まで、バルセロナで背番号10番を背負った彼は、その技術と堂々たる体格でDFにとって悪夢のような存在だった。
ラ・リーガ優勝とバロンドール受賞を果たした2005年、レアル・マドリーのサンティアゴ・ベルナベウでのクラシコで圧倒的な個人プレーを見せつけ、スタンドの観客全員からスタンディングオベーションを受けたことは有名だ。翌年もチャンピオンズリーグで優勝し、2000年代初頭のバルセロナの復活の象徴として笑顔を振りまいていたが、その座は、このリストの次の選手に譲ることとなる…
他に誰がいるというのか。メッシは間違いなく史上最高の選手であり、もちろん、バルセロナ史上最高の背番号10である。当初、背番号30をつけていたメッシは、ヤマルと同じく背番号19になった後、2008年、背番号10を授与されたのだった。
アルゼンチンの天才は、その背番号を着用して7度のバロンドール、8度のラ・リーガ優勝、3度のチャンピオンズリーグ優勝を成し遂げ、624得点を記録。2021年、バルセロナの財政危機のせいで、つらく不本意なPSGへの移籍を果たすまで、その背番号を背負い続けた。
史上最高の選手になるポテンシャルを持つヤマルが、カンプ・ノウでメッシの偉業に近づくような活躍を見せれば、バルセロナのファンは歓喜するに違いない。